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日記・コラム・つぶやき

2013年10月 3日 (木)

10月のはじまり

10月になった。もし公募展に入選していたら、また華やかな会場でうきうき歩き回っていただろうに。

版画展に応募した作品は、何だか予想が当たって、日の目に合わなくなると寂しいので、個展に参加させて良かった。版画展には個展の時と違う少し落ち着いた青を選んでいたから、これはすこし主張が足りないかもしれないと思っていた。やはりそうだったのかもしれない。

今年の版画関係の予定は11月に文房堂ギャラリーである多摩美の生涯学習講座の最後の展覧会のみ。それですべて終了。
今年は個展に全力を注いで、なんとか成功した。これでいいのかもしれない。
次にいく工房の予定はまだない。先日ある工房を尋ねてみた。出来たら都内がいい。
なかなか感じがよかったけれど。いままで自由に作成し、自分流を追求していたのだから、
既成色の強いところでは、のびのびやれないかもしれない。
まだ決めかねている。

秋は身の回りを少し整理し、気候の良い日には、美術館を巡ってみるのもいい。
脚力は完全ではない。すこし過ぎると、その晩は痛む。まぁ、調子のいいうちに、見たいものは観に行こう。

調子に乗ってフランス・ランスに出来たルーブル美術館別館に行ってみたい。SANAAの設計。

金沢20世紀美術館なら行けるかもしれない。

その前に西洋美術館でやっている、コルビジェ展も観てみたい。

河口湖美術館ではミロ展をやっている。紅葉の頃 行ってみようか。

なんだか疲れてしまったのです。夢を見ながらじょじょに回復していかねば。
それはそうでしょう。周りの人たち、40.50.60代。私、後期高齢者。
お年を考えれば?と言われそう。

個展が終わって、旅行もして、やや落ち着いた所で、来ると言ってこなかった同級生の安否が気になって、電話をしてみた。

「何とか元気よ。暑かったから行けなかった」 

本当に暑かった日々。死んでいなかったから良かった。

「もっと涼しい時だったら行けたのに」

そういう時は費用が倍かかるのよ。こっちが無理。

こんな悪条件でも、個展には大勢の友人、知人が来てくれて、すばらしい思い出も出来、
いい時間を持てたこと。なんと運のいい人生なのだろう。満足、満足。
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2013年8月22日 (木)

すべりひゆ

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この雑草を食べて育った経験のある人はどの位いるだろうか。

いままで友達とすべりひゆの事を話したことはない。子供たちに語ったこともない。
夫に聞いてみたら、すべりひゆなんて知らないというだけ。

私はこの雑草が妙に気になって、コンテナーの縁にこの小さな植物見つけると、なつかしくなって、抜かずに成長を見てみたくて放っておいたりしている。真夏になると小さな黄色の花が咲く。

子供の頃食した雑草の中で、比較的好きだったのがスベリヒユ。
松葉ボタンに似ていて、ころっとして、厚ぼったい葉っぱの若芽をつんで、油いためにして食べた。8月になると道端の隅に這いつくばるように生えていて、適当に踏み荒らされても丈夫な草なのだ。学校帰り、その芽を摘んで、母に持ち帰った記憶もある。

今は道路はほとんど舗装されて、道端に雑草を見ることもない町。ときどき売れ残った宅地の隅に見かけたりするけれど美味しそうな感じはしない。

2013年8月15日 (木)

終戦の日 1945年8月15日

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その時私は国民学校の2年生だった。
食糧難で痩せていて背も小さい女の子だったけれど、5人兄妹の真中で長女だった。2歳下の妹とさらに2歳下の妹がいて、疎開先の山梨県大月町で主婦同然の生活をしていた。
兄達は学童疎開で長野へ行き、父の仕事場(飛行機製造の会社)の大月の社宅で5歳の妹の面倒を見ながら留守番をしていた。母は東京の家の整理に末っ子の妹を背中におぶって往復していた。その間、私は5歳の妹と父の3人で暮らしていたことになる。
食事の支度を薪で炊いていたことは覚えている。
まだ家庭菜園などしていなかったから、妹と山に雑草を取りに行き、山藤の芽、あかざ、すべりひゆ、かんぞうなど食べられる雑草を摘んでおかずを作った。
3月末に疎開して、1か月ぐらい学校には行っていなかったのかもしれない。
社宅の台所の窓からは富士山がよく見え、いつもシルエットがきれいだった。

8月15日は学童疎開から引き取った兄たち、5年、3年、と私2年生の国民学校生だった。

ラジオが自宅にはないので、近所のラジオのある家に親たちは集まって、天皇陛下の玉音放送を聞きに行っていた。私は何となく静かになった家の前の道で妹たちと無邪気に遊んでいた。まだ7才の子供で良かった気がする。

むしろ3年生になって、焼残った東京の家に戻ってからの食糧難の生活の方が大変だった。

私の孫も小学校の2年生になった。両親が共働きでフルタイムで働いているから、
放課後は学童保育やキッズキャンプや四谷大塚など、あちこちにあづけられて、親が迎えに来るまでの時間を過ごしている。それなりに頑張っている。
子供は苦にしていないのかもしれない。

今日は母親が出勤でいないからお盆休みで休暇を取っている父親といっしょに遊びに来てくれた。おもいっきり、父親にまつわりついて、甘えている。

68年前の自分と同じ年齢にはどうしても思えない。あんなに親に甘えたことはなかった。
何しろ主婦のような生活をしていたのだから。

2012年4月14日 (土)

命日は2011・3・11

Dm_3 友人Yさんのご主人の命日だったとは。

30代の頃、夢中で土を捏ねていた頃があった。

陶器づくりの魅力に憑かれて陶芸家神谷紀雄先生の千葉のアトリエに通っていた頃、

同じく夢中になっていた仲間、それが今日の電話の主。

先生の展覧会の通知が三越から来ていたことを思い出した。

多分一緒に行きましょうよという事と思った。そういえば彼女から年末にきたはがきには

ご主人が亡くなったと書いてあった。多分私と同い年のはず。早いなぁとその時は思った

が詳細は聞かなかった。電話が有ったときは留守だったので、夕方改めて電話した。

「確かご主人亡くなられたのね」という言葉から話は始まったのだけれど、その一言から、

彼女の怒涛の1年の出来事が、湯水のごとく、ほとばしり始めた。

展覧会への同行も勿論だったけれど彼女は聞いて欲しかったのかもしれない。

2011・3・11 14時頃、ご主人は自室のベッドで倒れるように死んでいたそうだ。

3時間前は普通に話をして、彼女が外出から戻ったときは、還らぬ人になっていて、救急

車で病院に運び検死の最中、あの大地震が発生し、東京の西地区でも結構揺れ、電車も

ケータイもみな不通になったのは記憶に新しい。

その煽りで、勿論子供たちへも、葬儀社にも連絡できず、やっと機能していた警察の車で

帰還し、かろうじて連絡できて駆けつけた息子たちと密葬できたと言っていた。

全く予想もしなかった急逝だったので、それ以来弔問客が途切れなく訪問し、その応対で

くたくたになって、すべて終わって一周忌。その日は決して忘れられないという。

「とにかくあなたに会いたいわ。展覧会なんて二の次。会えるかしら?」

と1時間以上一気に話して結論がでた。

彼女には入院中の94才の実母がいて、本人も数年前脳梗塞でまだリハビリ中のはず。

「人生順番どうりにはいかないものね」  その一言も重い。いまはひとり暮らし。

「生きて帰ってくる見込みがない母の道具、処分する気になれないの。子供たちは、処分し

て、駅近のマンションに移れと勧めるのよ」

三越の展覧会を見たあと、この話の続きが始まるのだと観念して、久しぶりに4才下の

新未亡人の気持を美味しい昼ご飯を食べながら、鎮めてこなければ。

でも、対岸の火事ではない。いつ何時我が身にも降りかかって来るかもしれない。

2012年4月 4日 (水)

入学式の唇寒し

朝日新聞の記事によると、入学の春を迎えた大阪の学校に重い空気が漂っているらしい

≪橋下徹・大阪市長の意向で教職員に君が代の起立斉唱を義務付ける全国初の条例が施行されたことを受け、1万3千人の教職員に職務命令が出され、厳密な確認が始まったからだ≫

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私の人生の中で君が代を歌った入学式の記憶がない。勿論生徒、学生として。

小学校1年生は昭和19年だったけれど、戦争末期、入学式の記憶がない。

区立小学校の卒業式では日本は敗戦国で今までの価値観が崩壊した時期、

君が代は歌っては行けなかったようだ。仰げば尊しも歌わなかった。

中学校はキリスト教だったから、讃美歌を歌った。

高校では生徒の自主性の強い学校で歌わなかったし、大学でも歌った記憶がない。

初めて入学式で君が代を意識したのは長男が区立小学校へ入学し、講堂の正面に

日の丸の国旗があり、それに向かって国歌斉唱という声が、妙に馴染まなかったのを覚

えている。1972年だったか。

それから20年後地方の短大に就職し、毎年入学式、卒業式に日の丸を目前にして国歌

斉唱をしてきた。地方は保守的なんだと思いながら、口を開いて歌った。誰が歌わないか

誰もチェックなど、していなかったと思う。でも学生で歌っているものはいなかったようで声

が小さすぎて、合唱付きの伴奏テープを流していた。それが習慣になっていた。

それも不思議だった。時代が50年位戻った気がずっとしていた。

君が代を歌わない教育を受け、オリンピックやサッカーの試合で耳にする。

君が代の曲は好きだ。短調で寂しげで`やはり雅楽の音がいいと思う。

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2012年3月19日 (月)

衣食住、欠乏感はどれ? その2

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食生活には文句は言わない。美味しいモノが好きだけれど、わざわざ行列までして食べようとは思わない。遠くまで電車に乗って、食べに行かなくてもいい。

子供の頃は草や芋のつる、とうもろこしのパン、ふすまで作ったおやき。麦めし、鰯の煮付け、鯖の味噌煮、大根の味噌汁、芋入りごはん。皆懐かしい食べ物ばかり。それしかなかったから、それで育った。小学生の頃だからそんなものしかなかった。特別美味しいとは思わなかったけれど、それらしか知らないまま、大きくなれたのでした。

不思議とこれが私の食生活の基礎なんですね。でも、でも、この食生活には戻れない。食よりそれを取り巻いていた貧しい時代を思い出したくないのです。

仕事に集中しているとき、食べることは面倒です。食べる前に、作ることに、気を散らしたくないから。空腹を満たすには美味しいピーナッツがあればいい。時々甘納豆。

なんで今更仕事に集中しているの?と不審に思う人がいるかもしれない。昨年沢山版画を制作したのです。家のガレージ工房で。腐蝕を始めると気をゆるせないのです。食事時間なんてスルーです。定年になって終日家にいる家族の食事を作っているけれど、こういう時は、お断りです。勝手に食べてねと。人間なんだからと。犬は勝手に食べられないから、世話するけれど、それもドッグフードのみ。大した手間ではない。

時々毎日の食事の支度にくたびれてくると、犬のように出来合いのフードで済ましたいと思うときあります。サプリメントだけでもいい。カップ麺や野菜ジュースやジャンクフード。でも私の食生活には縁がない。育ちが雑草と麦飯、自然食しか浮かばないのです。せいぜい卵かけご飯。しかし糖尿病持ちの夫はご飯は控えめがよくて、高コレステロールの妻は卵は控えめでなければだめ。思うようにはいかないお年頃になっていたのでした。

版画家の池田満寿夫がアメリカ時代の生活を書いた「私自身のアメリカ」講談社文庫の中で当時のアメリカ人ワイフ莉蘭のことを書いていた文を覚えています。凄く印象に残っていたので、古い文庫本を開いてみました。

リランにかぎらず仕事をしている女性たちは、自分の食べ物にはかように無関心であるのが当り前であった。実際リランの女友達で、料理ずきの女性がほとんど一人もいなかったのは、いかに類は友を呼ぶとしても、私には不公平なサンプルであった。私だって仕事をしている人間である。その私が料理をするのは、なにも女房を喜ばせようとか、彼女の女友達の評判をよくしようとかいう目的ではない。普通の材料を手をかけることによって、少しでもうまくして食べようとする、人間として最低の努力を惜しまないからである。それと、私にはなんの趣味もなかったから、料理は手頃な気分転換になった。

池田満寿夫38才ごろの記述です。

高齢ぐらしは毎日のお料理が仕事で、版画を作ったりするのが大いなる日常からの気分転換というわけです。

2012年3月12日 (月)

衣・食・住のうち欠乏感はどれ?その1

おかげさまで一生懸命働いてきた人生、衣食住どれも不満足なものはありません。でもなぜ今こんなことを考えているのか。

小さな頃は住まいに関しては文句のつけようはありませんでした。庭には木蓮や椿や栗の木や、ヒマラヤ杉があり、裏庭には筍さえ生えてきましたから、おままごとの材料には事欠きませんでした。戦火で燃えることもなく結婚して家を出るまで住むことが出来たし。学校友達の誰よりも大きくていい家だったと、友達の家に遊びに行って感じたものでした。間取りとか部屋数は兄弟が多くて不満ではあったけれど、家の風格には満足で、そこで育った誇りが身についた気がします。

衣・・・自我に目覚める頃、オシャレ心が疼くとき、それが中学、いわゆるteen age。13・14・15才。戦後の復興がまだまだの時。渋谷のA学院に入学して、差別感とか格差感を味わったのでした。

制服のない学校だったから何を着て行っても良かったし、自由でした。物のない時代でしたから、母が古い洋服を解いてウールの紺のサージで上着を作ってくれたのが通学着でした。残念なことに古い服を継ぎ接ぎして作ったものだから、継ぎしたところが丁度お祈りの時間腕を組んだところにしっかりと出てくるのです。私はそれが隣りの子に見られるのが恥ずかしくて、すごく気を揉んだのを覚えています。特に日曜礼拝の時が一番いやだったのでした。

カバンは今ではお洒落な類に入るのだけれど、父が蒐集していたフランスの古布で母の手作り。そのトートーバックのようなカバンを、隣に座っていたアホボン(渋谷の眼鏡屋の息子)から“乞食袋って言われたよ”って家に帰って親に言ったら(私は結構気に入っていたのです)親は乞食袋と言われたのでは可哀想と思ったのか、次の日渋谷の鞄屋でチェックの布製の学生鞄を買ってきてくれたのでした。この中学は男女共学なのに家庭科の時間に力を入れていて3年生になって襞スカートや浴衣など教わって何でも縫えるようになっていましたから、高校では家庭科は選択せず過ごしました。

高校は都立高校に入ったので、着るものに関してはもの凄く気楽でした。制服が決まっていないのに、男子は詰襟、女子はセーラー服を着ていて、私は制服は高いから、母の手製か、自分で作ったものを来て行きました。黄色のコージュロイのジャンパーとか赤紺のチェックのシャツとか。その頃ディオールが流行し始め、そんなスタイルのコートを来ていた友人もいましたけれど、羨ましい感じはありませんでした。通学カバンも自分でデニムの端切れで作ったり。

そんなわけで衣に関してはいつも欲求不満な青春時代を送ったのでした。

以前読んだ森瑤子(1940-1993)の対談集の中で、同じようなことを言っているので驚いた記憶があります。一番おしゃれをしたいとき、いつも欲求不満だったのが衣だったこと。だから着ることに目がないと。1980年代に活躍し、駆け抜けていった作家の言葉でした。

2011年10月19日 (水)

工房に行かなかった理由 その1

火曜か水曜には版画工房に行って、かならず版画作りの仕事をすることにしていた。

生活のリズムのためにも。それが今週は行かなかった。どうして?

★展覧会が終わって一段落したから、あえて急いで制作に入ることもない。

 と心のどこかで感じていたのかもしれない。

★夜の外出(5~8時)が億劫になったのかも。後期は昼間のクラスに戻るつもりだったの

 に、定員オーバーになり入れなかった。

★それに地下の工房に下りる19段の階段が気になったり。階段こわーい。(。>0<。)

 本当は行くつもりで、前日銅板を用意していた。以前作った良い出来でない版をピカー

 ルや砥石で磨いてきれいにしていた。次の作品はこの版を使用しようと思って。

火曜がダメなら水曜に行けばいいかな。とその時は思った。

★外出前に、夫が今夜は豚とキャベツの鍋にしようと、もう夕食の注文。

あれ!!今夜は出かけるつもりなのに。ひとり鍋?ちょっとかわいそうかな。

何かに夢中になっていれば、悪いけれど、人のこと構っていられない。

集中しているのだもの。夕食なんて何でもいい。ビールがあれば(゚▽゚*)

それほどでもなかったので、夫と夕食一緒にしてもいいかな。豚はいや。野菜料理で。

結局版画工房には行かずに夕食も一緒にすることにする。

★実は7時からはじまるTVが観たかったの。NHKBS プレミアムの秋のシリーズ、

 火野正平の『にっぽん縦断こころ旅』 今日は山口地方を走るはず。

 私のTV,録画機能がないもので。

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