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2014年8月16日 (土)

69年前の8月15日

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その時私は国民学校2年生でした。あれから69年経ったのですね。新聞では熱く当時の事が記事になっています。暑い夏でしたから。
まだ7才でしたから本当に周囲の動きを批判的に見ることはありませんでした。ただ食料がなく、母親は慌ただしく疎開地と東京の家を3歳の妹を背中におぶって行き来して荷物運びをしていたし、山梨県大月の飛行機会社の社宅に疎開の地を決めた父親と2歳下の妹をかばいながら家事に追われていたのを覚えています。二人の兄たちは学童疎開で長野の飯田に行っていました。

69年後の8月13日、何気にラジオを聞いていたら聞き慣れた町のニュースが流れてきました。

8月13日は山梨県大月町がB29の爆撃を受け機銃掃射が集中して、当時の女学校の学生たちが沢山死んだというニュースでした。さすがに当時の事はあまり記憶になかったけれど、私たちが住んでいた飛行機会社の社宅は崖の上に何軒か建っていて、その崖の下にはいくつも防空壕が掘られていて、その日防空壕が機銃掃射を受け、担任の先生の弟がやられたという話をおぼろげに思い出しました。その2日後が終戦のラジオ放送だったのでした。

大月には興亜航空という飛行機会社があって父はそこの会社の飛行機の設計にかかわっていたのでした。そのほかにも、軍而工場が何箇所かあって狙われたのでした。

ネットで当時の事を検索して見るとまさに終戦2日前の事実がわかりました。

60名近くの学生たちが爆撃に遭い命を落としたという女学校の同窓会で追悼法要が行われたというニュースでした。

社宅の近くから山を下りていくと桂川という清流が流れていて、終戦後には兄たちと魚を捕りに行ったり鰻をしかけたりしたこともありました。爆撃のあった日には桂川から大きな岩が町の中心部にまで飛んできて、今でも記念碑として残されているそうです。

69年前の子供の頃の地方の生活の思い出が、戦争の傷跡で被われてしまったのでした。

両親や兄たちには大月の思い出はつらいものばかりだったと思います。2度と行きたくない場所だったのかもしれません。終戦後2年生の学期を終わらせて焼け残った東京の家に家族全員戻りました。その後数年間、食糧難と物資困窮だった生活が続きました。
知恵もついてきて、その後数年間のつらい生活の方が痛い記憶として残っています。

ただ、私にとってはとってもいい思い出もありました。豊富な自然、裏富士の美しさ、川遊びの楽しさ、山の道に咲いていた雑草や花々の姿。
7才という子供だったからでしょう。さらに小さかった二人の妹たちとは、この地の経験を語ったことはありません。妹たちの記憶の中にはこの終戦の日の風景は残っていないのですから。

現在私と付き合いのある友人たちは殆どが年下で疎開といっても実感の沸かない人ばかりだし。
不思議なことに学生時代も終戦時の話題は殆どしたことがなかったのです。個人差があるし、空襲に縁のなかった地方もあるし、食糧事情があまり悪くなかった地域もあったようだから。頭を下げて農家に買い出しに行った経験を誰もがしたわけではなかったようです。

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