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2012年4月

2012年4月28日 (土)

上野公園は雨にぬれて

0427_4 上野に朝早くから出勤。展覧会の当番は9時半から。やはり出展する以上、義務はきちっと果たさねばと、妙に真面目に行動しています。出勤時はやはり電車が混んでいて、ホームも妙に混んでいました。京浜東北線で人身事故があったとか。山手線もダイヤが乱れて、到着電車も混み合っていましたけれど、幸いしばらくしたら座れて上野まで楽できました。上野駅に着いたら、雨なのに、駅前は学生たちで溢れていて、広場もどうやら修学旅行生でいっぱいで、上野は天候で予定は変更しない人たちの社会で、新緑も小雨のしずくをいっぱい吸って、一週間前よりさらに深くなっていました。

都美の展示空間は明るくなって、絵が映えます。私の版画もほかの作品とうまく融和して大人しく納まっておりました。でしゃばりもせず、控えめに、いじけもせず、落ち着いておりました。とってもほっと致しました。0427_3 

作品を出展した人たちと、交代でリニューアルされた二階のレストランで、昼ごはんに。
せっかくふわふわオムレツを注文したのに、冷めた固いオムレツがきたと文句を言う人(女)、ビーフコロッケを注文したのに、衣は暖かいのに中身は冷たいとブツブツ言って食べる人(女)、ホワイトグラタンがいつまでも来ないといらついて、席を蹴って出て行ってしまう人(男)、
まだオープンして間がないのだから、昼食時にはしょうがないのにと、とくに急ぐ場合でないので、やっと最後にきたハヤシライスを、三人の不満を馬耳東風に聞き流して食した私でした。絵かきは場馴れしていない人のグループなんだろうか。


この美術館のリニューアルは設計者の前川国男の当初のコンセプトを守りながら、設備系統の高機能化、バリやフリー化に力を入れたと聞いていました。
案内所に座っていると、間違って他の展覧会を見に来る人たちが何人もいました。動線が分かりにくいらしいのです。でも私はとてもわかりやすく大きな字で色分けしてあり、迷いませんでした。建て替えたわけではなく、改装しただけなのね。という人もいました。前川建築をそう簡単に壊すわけには行かないでしょう。というとそんなに有名な建築家なの?

説明する気にもならず、文化会館もおなじ建築家なのと言うにとどめました。若い版画家と話していた時のことでした。話が通じないことばかり。

上野公園の三つの建物の設立年を調べて見ました。
東京都美術館  1975
国立西洋美術館 1959
東京文化会館  1961

この時期は私の青春時代に重なります。上野公園は建設ブームだったのでした。

2012年4月22日 (日)

一陽会東京展の搬入@東京都美術館

「雨が降りそうだから、早めに上野のお山へ行ってきます」と2点の版画の額をキャリアーに積んで家をでたのが9時過ぎ。
上野駅から美術館まで歩けるか心配だったけれど、新緑の公園をゆっくり歩いて行くことにした。どんより曇ってあまりいい天気ではないのに、人の流れは結構多く、何処へ吸い込まれて行くのだろう。 久しぶりの上野公園、なんだかずいぶん変化している。
墳水のある広場にはカフェやスタバが新設されて(4月18日から)便利になっている。

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いつも青いテントのあった森は、子供用の遊具が設置されたり、トイレが増設されたり、パンダ人気のせいなのかしら。
都美も長いこと改装工事をしていたけれど、4月1日からオープンし、一陽会も早々に開催できる運びとなったらしい。
上野に自分の作品を展示できるなど、思ってもいなかったけれど、せっかくきれいなった美術館を体験出来るのもいい。
足痛の不安はあったけれど、何とか徒歩で搬入できた。地下3階の搬入場所はすぐ分かり、10時からの受付も始まったばかり。徒歩で搬入するものなど居ないようだ。0422jpg_4

搬入が終わって、美術館にも立ち寄った。入口は南側の広場からエスカレーターと階段が設置され、スムースに玄関へ進めるようになった。この美術館のメインアプローチがサイドからの階段だったのが難点で、今回の大規模改装でバリヤフリー化され、この美術館の訪問者の大半が高齢化し、やっと使いやすくなったのはなにより。

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カフェやレストランも新設され、メニューもふえて、この館内で食事時間も楽しめそう。
この日は時間が早くて、レストランはまだオープンしておらず残念だったけれど、1階のカフェで、ミントソーダーを飲んで一休み。

上野の山はこれからさらに新緑もまし、25日から30日まで2度は来て、展覧会のご案内をすることになる。27日と30日にはお会いできるでしょうね。

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2012年4月19日 (木)

一列に並べてみたら (2)

                        Photo_2

少し下の部分を荒らしてみたのです。波が立っているように。
アクアチントを全体にかけ、工房の松脂まく道具で細かい粒子の松脂を巻きました。
そして持ち帰り、ゆっくり波のような、しぶきのような味を出すために、布の端切れに腐食液をつけ描くように、時間差付けて。波の段差を出そうと思って。
時々しぶきも散らばせて。
それが良くなったか、あまり変化がないような。むずかしい。

工房で見ていた人たちにこれどうやってするのと聞かれても、ただいま試験中ですから、簡単には説明できません。説明する暇があったら、違う色合いを試してみたいのですから。

それより版画には名前が必要です。今まではブルーメモリーシリーズで簡単に銘打っていたけれど。これからはもう少し、象徴的な名前をつけてみようかと考えています。
英語の方が画面と合うのですけれど、日本語の方が伝わりやすい。以前はなるべく端的に
短い名前が多かったようですが、最近の若い版画家たちは、しゃれた名前をつけています。

まだ見ぬ風景
行ってみたいなよその海
幻影の海

どうでしょうね。

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2012年4月17日 (火)

アートの季節のはじまり

桜の季節ももう終わり。上野の山も今度行くときは葉桜になって、若葉の緑がやさしく迎え
てくれるだろうな。東京都美術館もやっと改装なってオープンしたようだし。
今年の展覧会最初の出品は、上野。一陽会東京展が4月25日から始まります。
上野に出品するなんて考えてもいなかったけれど、小さな版画2点出すことにしたのです。
改装なった都美のその後も見てみたいから。バリヤフリー化されたようだし。
というわけで今年の展覧会は次々始まるのです。0415                       ローリエの花

① 一陽会東京展 4月25日〜30日@東京都美術館
上野に搬入するのは初めて。どうやって運ぼうか。足痛いのに上野公園横断して行くのは結構遠い。小さな額でも大変。駅からタクシー?

② 八雲展 5月18日〜23日@O美術館
今回で30回目になる。私が参加するようになって10年。会員は超高齢者になって、事務局引き受けてしまって、雑務で大忙しというより中々進まない。返事が遅いのです。末期状態。

③ 葵展  6月4日〜10日@ギャラリーくぼた
お付き合いで出品しています。元男性社員が多いのですが、少数の女性参加者の作品の方がレベル高いともっぱらの噂。ここも皆高齢化して、お付き合いも骨が折れます。

④ 一陽展 10月3日〜15日@国立新美術館
公募展4回目の応募となります。2点新作作るのは、これから。やっと工房がオープンしたから。体力が勝負です。まだ戦うつもり?なんて言われそう。

⑤ 版画展@文房堂ギャラリー 10月28日〜11月3日
生涯学習講座の1年の締めくくり。少し楽しい作品を作ってみよう。勝負なしだから。

今年はすみの会がないので夏は休めます。それでも展覧会中は当番があってギャラリーに詰める日が多いのです。
その時間、おしゃれして人と会う時間を楽しみたいと思います。

2012年4月14日 (土)

命日は2011・3・11

Dm_3 友人Yさんのご主人の命日だったとは。

30代の頃、夢中で土を捏ねていた頃があった。

陶器づくりの魅力に憑かれて陶芸家神谷紀雄先生の千葉のアトリエに通っていた頃、

同じく夢中になっていた仲間、それが今日の電話の主。

先生の展覧会の通知が三越から来ていたことを思い出した。

多分一緒に行きましょうよという事と思った。そういえば彼女から年末にきたはがきには

ご主人が亡くなったと書いてあった。多分私と同い年のはず。早いなぁとその時は思った

が詳細は聞かなかった。電話が有ったときは留守だったので、夕方改めて電話した。

「確かご主人亡くなられたのね」という言葉から話は始まったのだけれど、その一言から、

彼女の怒涛の1年の出来事が、湯水のごとく、ほとばしり始めた。

展覧会への同行も勿論だったけれど彼女は聞いて欲しかったのかもしれない。

2011・3・11 14時頃、ご主人は自室のベッドで倒れるように死んでいたそうだ。

3時間前は普通に話をして、彼女が外出から戻ったときは、還らぬ人になっていて、救急

車で病院に運び検死の最中、あの大地震が発生し、東京の西地区でも結構揺れ、電車も

ケータイもみな不通になったのは記憶に新しい。

その煽りで、勿論子供たちへも、葬儀社にも連絡できず、やっと機能していた警察の車で

帰還し、かろうじて連絡できて駆けつけた息子たちと密葬できたと言っていた。

全く予想もしなかった急逝だったので、それ以来弔問客が途切れなく訪問し、その応対で

くたくたになって、すべて終わって一周忌。その日は決して忘れられないという。

「とにかくあなたに会いたいわ。展覧会なんて二の次。会えるかしら?」

と1時間以上一気に話して結論がでた。

彼女には入院中の94才の実母がいて、本人も数年前脳梗塞でまだリハビリ中のはず。

「人生順番どうりにはいかないものね」  その一言も重い。いまはひとり暮らし。

「生きて帰ってくる見込みがない母の道具、処分する気になれないの。子供たちは、処分し

て、駅近のマンションに移れと勧めるのよ」

三越の展覧会を見たあと、この話の続きが始まるのだと観念して、久しぶりに4才下の

新未亡人の気持を美味しい昼ご飯を食べながら、鎮めてこなければ。

でも、対岸の火事ではない。いつ何時我が身にも降りかかって来るかもしれない。

2012年4月 4日 (水)

入学式の唇寒し

朝日新聞の記事によると、入学の春を迎えた大阪の学校に重い空気が漂っているらしい

≪橋下徹・大阪市長の意向で教職員に君が代の起立斉唱を義務付ける全国初の条例が施行されたことを受け、1万3千人の教職員に職務命令が出され、厳密な確認が始まったからだ≫

0406 

私の人生の中で君が代を歌った入学式の記憶がない。勿論生徒、学生として。

小学校1年生は昭和19年だったけれど、戦争末期、入学式の記憶がない。

区立小学校の卒業式では日本は敗戦国で今までの価値観が崩壊した時期、

君が代は歌っては行けなかったようだ。仰げば尊しも歌わなかった。

中学校はキリスト教だったから、讃美歌を歌った。

高校では生徒の自主性の強い学校で歌わなかったし、大学でも歌った記憶がない。

初めて入学式で君が代を意識したのは長男が区立小学校へ入学し、講堂の正面に

日の丸の国旗があり、それに向かって国歌斉唱という声が、妙に馴染まなかったのを覚

えている。1972年だったか。

それから20年後地方の短大に就職し、毎年入学式、卒業式に日の丸を目前にして国歌

斉唱をしてきた。地方は保守的なんだと思いながら、口を開いて歌った。誰が歌わないか

誰もチェックなど、していなかったと思う。でも学生で歌っているものはいなかったようで声

が小さすぎて、合唱付きの伴奏テープを流していた。それが習慣になっていた。

それも不思議だった。時代が50年位戻った気がずっとしていた。

君が代を歌わない教育を受け、オリンピックやサッカーの試合で耳にする。

君が代の曲は好きだ。短調で寂しげで`やはり雅楽の音がいいと思う。

0404

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